1868年(慶応4年)1月6日深夜、鳥羽・伏見の戦いの激戦が続く中、大坂城の本丸から忽然と姿を消した徳川慶喜。前日まで「千両の軍勢が崩れようとも、余自ら討って出る」と幕臣や会津・桑名藩の将兵を前に大演説をぶっていた最高司令官が、わずかな側近と会津藩主・松平容保らを引き連れ、軍艦・開陽丸で江戸へ逃亡した事実は、日本史における最大の「謎」かつ「汚点」として語り継がれてきました。
置き去りにされた幕府軍の将兵の憤激は凄まじく、大坂城は略奪と混乱の極みに陥りました。当時、現場にいた兵士の手記には「上様(慶喜)に見捨てられた」という絶望と罵詈雑言が克明に記録されています。世間からは「豚一様(豚肉好きの一橋様)の腰抜け」「敵前逃亡の臆病者」と激しいバッシングを浴びました。しかし、関係史料を精査すると、そこには極めて論理的かつ冷酷な「リアリストの政治判断」が浮かび上がってきます。
最大の転換点は、戦場に「錦の御旗(にしきのみはた)」が翻った瞬間でした。薩長軍が官軍となり、幕府軍が「朝敵」と規定された知らせを聞いた慶喜は、顔色を失ったと伝えられています。慶喜の生家である水戸徳川家には、徳川光圀以来の鉄の掟がありました。
「たとい幕府と朝廷が弓矢を交えることがあろうとも、我が家は絶対に朝廷に弓を引いてはならない」
父・徳川斉昭から幼少期より叩き込まれたこの「水戸学の尊王思想」が、慶喜の精神的背骨でした。もし大坂城に踏みとどまり徹底抗戦を指示すれば、名実ともに自分が「朝敵の首魁」となり、260年続いた徳川家そのものが朝廷反逆の逆賊として地上から抹殺される。慶喜にとって、前線の兵士の命や自らの武士としての面目よりも、「朝廷への反逆回避」と「徳川家の存続」が絶対的な優先順位を持っていたのです。