近藤勇の最後はなぜ切腹でなく斬首か?流山捕縛と首塚の謎を完全追跡

近藤勇の最後はなぜ切腹でなく斬首か?流山捕縛と首塚の謎を完全追跡

近藤勇の最後はなぜ切腹でなく斬首か?流山捕縛と首塚の謎を完全追跡の疑問点について、最新情報を基に徹底解説します。

板橋総督府に身柄を移された近藤勇の処遇を巡っては、新政府軍内部で激しい対立が生じました。薩摩藩の軍監・有馬藤太は近藤の堂々たる態度に敬意を払い、武士としての助命、あるいは寛大な処置を模索していました。しかし、その動きを根底から覆したのが、土佐藩の谷干城(たに たてき)ら強硬派の強い主張でした。

近藤勇に名誉ある「切腹」が認められず、極刑である「斬首」が科された理由は、主に以下の3点に集約されます。

  • 坂本龍馬暗殺(近江屋事件)の首謀者という断定:当時、坂本龍馬・中岡慎太郎を暗殺したのは新選組であると信じられており(実際は京都見廻組の犯行)、土佐藩士たちの復讐心は頂点に達していました。谷干城は「坂本・中岡を惨殺した巨魁を武士として切腹させるなど言語道断」と強硬に主張しました。
  • 身分秩序の否定と賊軍扱いの徹底:近藤は幕臣(旗本)に取り立てられていたものの、新政府軍側は彼を「甲陽鎮撫隊を率いて朝廷に弓引いた農民出身の不逞浪士・逆賊」と規定。旧幕府勢力の士気を挫くため、武士としての身分を認めず、平民の罪人として扱う政治的プロパガンダが必要とされました。
  • 清算すべき血の代償:京都守護職配下として尊皇攘夷派の志士を多数粛清した池田屋事件や油小路事件の怨嗟が薩長土の首脳陣に根深く残っており、見せしめとしての公開処刑が不可避でした。

慶応4年4月25日夕刻、板橋宿外の馬場(現・東京都北区滝野川付近)にて、近藤勇の斬首が執行されました。享年35。武士として死ぬことを願い続けた男の最後は、幕末の政治的抗争と身分制度の壁に阻まれる形となったのです。

石川 優花
著者

石川 優花

心身ともに健康で持続可能なライフスタイルをテーマに、最新のウェルネストレンドを発信中。