戦国時代の地図で暴く勢力図激変の真相!信長・秀吉の野望と領地対比

戦国時代の地図で暴く勢力図激変の真相!信長・秀吉の野望と領地対比

戦国時代の地図で暴く勢力図激変の真相!信長・秀吉の野望と領地対比を徹底追究! 知っておきたい トピックの裏側を凝縮して配信します。

戦国時代において最も劇的な領地拡張を成し遂げたのは、言うまでもなく織田信長です。1560年、尾張一国の小領主だった信長は、今川義元を討ち取った桶狭間の戦いを皮切りに、驚異的なペースで勢力を伸張させました。

織田信長 勢力拡大 経緯を辿ると、美濃斎藤氏を倒して岐阜に拠点を移し(1567年)、翌1568年には足利義昭を奉じて上洛を果たします。その後、浅井・朝倉、武田、本願寺、延暦寺などが結託した「第1次〜第3次信長包囲網」の絶体絶命の包囲劇を、同盟者・徳川家康の支援と各個撃破の電撃戦で打破。1582年(天正10年)3月の甲州征伐で名門・武田氏を滅亡させた瞬間、織田政権の版図は本州中央部の過半に達していました。

ここで注目すべきは、歴史ファンや研究者の間で今なお議論が白熱する本能寺の変 直前 勢力図 真相です。天正10年5月時点の日本地図を見ると、信長は自らの直轄領(安土城・近畿中枢)を取り囲むように、巨大な「方面軍」を放射状に展開させていました。

北陸方面には柴田勝家、中国方面には羽柴秀吉、関東・上野方面には滝川一益、東海道・駿河には徳川家康、そして四国征伐軍の司令官として丹羽長秀と三男の織田信孝を大坂に待機させていました。中央の畿内には、軍団を率いる大物が明智光秀しか残っていなかったのです。

地図上で俯瞰すれば明らかな通り、全方面へ向けて大軍が展開しきった結果、中央の京都・近江周辺は軍事的な「巨大な真空地帯」と化していました。信長は圧倒的な軍事力で全国を包囲していたはずが、自らが構築した広域防衛網の配置図そのものが、本能寺における無防備な最期を招く構造的要因となっていたのです。

池田 達也
著者

池田 達也

Webメディアでの編集・執筆歴10年。読者の好奇心を刺激するストーリー作りを心がけています。