倉本聰氏とNHKの間に生じた最大のトラブルは、1974年に放送された大河ドラマ第12作『勝海舟』の執筆途中降板事件です。当時、気鋭の脚本家として絶大な評価を得ていた倉本氏は、幕末の英傑・勝海舟の生涯を従来の英雄譚ではなく、生々しい人間ドラマとして描き出す野心的な試みに挑んでいました。
しかし、制作現場では深刻なアクシデントと対立が相次ぎました。まず、主演を務めていた俳優の渡哲也氏が急性肋膜炎(胸膜炎)を発症し、わずか9回で無念の途中降板を余儀なくされます。急遽、松方弘樹氏が代役に抜擢されたものの、当初の構想とキャスティングを前提に緻密な筆運びをしていた倉本氏のプランは大きな修正を迫られることになりました。
決定打となったのは、演出・制作陣との間に生じた脚本表現を巡る埋めがたい溝でした。倉本氏が書いた渾身の台本に対し、NHKのディレクター陣が無断で台詞を削除・改変する事態が頻発。現場での対話による解決を求めた倉本氏に対し、巨大組織としてのスケジュールと規律を最優先する局側の硬直した姿勢が重なり、人間不信と創作への絶望が極限に達しました。
結果として倉本氏は第26回をもって執筆を放棄。家族を連れて東京の住居を引き払い、北海道へと姿を消す「失踪劇」へと発展したのです。後任には松山善三氏をはじめとする複数の脚本家が急遽立てられ、現場は大混乱に陥りました。