悪名高き陰謀家として語られる治済ですが、その最期である一橋治済 死因には今なお夥しい憶測が付きまとっています。文政10年(1827年)2月20日、治済は一橋邸において77歳でその生涯を閉じました。衛生環境が劣悪で政争が日常茶飯事であった江戸後期において、77歳は紛れもない長寿・大往生です。
にもかかわらず、当時から根強く囁かれたのが一橋治済 毒殺説でした。噂の背景には、治済の台頭過程で不審な死を遂げた要人たちの存在があります。
- 徳川家基(10代将軍世子):鷹狩りの後、突如激しい胸の痛みを訴えて数時間で死亡。治済による毒殺が噂された。
- 徳川家治(第10代将軍):田沼意次の医師が処方した薬を服用した直後に急変して病没。
- 田沼意知(若年寄):佐野政言による暗殺。治済勢力による刺客派遣説が江戸市中で流布。
数々の要人を消し去ってきたとされる治済だからこそ、「最期は定信残党による服毒死ではないか」「身内の誰かに毒を盛られたのではないか」という怨嗟混じりの流評が死後に爆発しました。しかし、同時代の一橋家幕府公式記録や医療日記を詳細に照合すると、実際には老衰に伴う自然死であった可能性が学術的に極めて高いと結論づけられています。死の間際まで権威を保ち、畳の上で天寿を全うしたという事実こそが、政敵たちにとって最大の屈辱であり、怪談めいた毒殺説を生み出した心理的温床でした。