作戦破綻の決定打となった「マルヌの戦い」の経緯を、前線の実態から検証します。当時、ドイツ軍最右翼を進撃していたアレクサンダー・フォン・クルック将軍率いる第1軍と、その左隣の第2軍(カール・フォン・ビューロウ将軍)は、猛暑の8月下旬、毎日30kmから40kmという過酷な強行軍を強いられていました。
ベルギーやフランス軍が退却時に鉄道の鉄橋やトンネルを徹底的に爆破したため、後方からの物資補給は完全に寸断。当時の兵士の日記や手記には、「ブーツの底が擦り切れ、飢えと疲労で立ったまま眠る戦友が続出した」「補給のパンが届かず、畑の生のビーツをかじりながら行軍した」といった凄惨な記述が残されています。
疲弊したクルックの第1軍は、もはや当初の計画通りパリの西側へ回り込む余裕を失い、退却するフランス軍を追撃するため、パリの東側へと進路を縮小・偏向させました。この進路変更によって、パリ防衛司令官ガリエニ将軍とフランス軍総司令官ジョフル将軍に絶好の反撃の機会を与えることになります。
パリのタクシー数千台を徴発して前線へ兵員を急行させたエピソードで知られるマルヌの反撃において、連合軍はクルックの第1軍とビューロウの第2軍の間に生じた「幅約50kmの隙間(ギャップ)」を正確に突きました。無線通信技術が未熟で司令部との連絡が断絶していたドイツ軍は、包囲殲滅される危機を察知し、9月9日にエーヌ川への退却を命じられます。この瞬間、シュリーフェン・プランは名実ともに灰燼に帰したのです。