永禄10年(1567年)、美濃の有力重臣集団である美濃三人衆(稲葉一鉄・安藤守就・氏家卜全)が織田方に寝返ったことで、龍興はついに居城・稲葉山城を追われることになります。多くの戦国領主であれば、領国を失った時点で歴史の表舞台から完全に姿を消すか、他家の客将として静かに余生を過ごすのが通例でした。しかし、龍興の真の真価が発揮されたのはまさにこの敗戦以降です。
城を船で脱出した龍興は、伊勢の北畠氏や長島一向一揆を頼った後、畿内へ進出。当時信長と激しく対立していた三好三人衆と電撃的に合流します。永禄12年(1569年)には、京都・本圀寺に滞在していた将軍・足利義昭を急襲する「本圀寺の変」に参戦。織田方の強固な包囲網をかいくぐり、畿内の中枢で信長に強烈な打撃を与えようと画策しました。
さらに元亀元年(1570年)の野田城・福島城の戦いでは、石山本願寺顕如の蜂起に呼応して前線で指揮を執り、信長軍を背後から揺さぶり退却へ追い込む決定的な役割を果たしました。その後、龍興は母方の縁戚筋にあたる越前の名門・朝倉義景のもとへ身を寄せます。義景から「一色殿」として客将待遇で迎えられた龍興は、浅井長政、武田信玄、本願寺、朝倉家が連動する一大「信長包囲網」において、織田軍の内情を知り尽くした重要参謀として極めて重用されました。