次男である秩父宮雍仁親王は、快活で行動力にあふれ、国民から絶大な人気を誇った皇族です。学習院を経て陸軍士官学校・陸軍大学校を卒業した生粋の陸軍軍人であり、イギリス留学時にはオックスフォード大学で学び、登山やスキー、ラグビーなどのスポーツ普及に尽力したことから「スポーツの宮様」として親しまれました。1928年には会津藩主・松平容保の孫にあたる松平節子(勢津子妃)と結婚し、朝野の話題をさらいます。
しかし、その人生は波乱に満ちていました。昭和初期、陸軍内の革新派(皇道派)将校たちから信望を集めたことで、期せずして政治の渦中に巻き込まれることになります。1936年の二・二六事件発生時には弘前の歩兵第31連隊に所属しており、事件の一報を受けて急遽上京。反乱将校への同情を警戒する昭和天皇と緊迫の対面を果たした事実は、歴史上広く知られるところです。
戦時中は総廃家(病気療養)となり、静岡県御殿場で長期にわたる肺結核の闘病生活を送りました。戦後の1953年、50歳の若さで薨去。秩父宮家の断絶理由については、勢津子妃との間にお子様が恵まれなかったことにあります。1995年に勢津子妃が薨去されたことで、秩父宮家は宮号を閉じ、歴史の幕を下ろしました。