2022年9月下旬、神楽坂の入口に張り出された一枚の告知文が、甘味ファンや地元住民、そして全国のカルチャーファンに走らせた激震は計り知れません。「諸般の事情により、令和4年9月30日をもちまして閉店いたしました」という簡潔な文面。予告期間が極めて短かったこともあり、店頭には別れを惜しむ人々が数時間待ちの列を作りました。
ネット上では「紀の善 閉店 なぜ」「神楽坂 紀の善 閉店 理由」といった検索が殺到し、経営破綻や赤字転落といった憶測も飛び交いました。しかし、飲食業界関係者への取材や当時の営業状況を検証すると、実態はまったく異なる様相を呈しています。
真相の根底にあったのは、老舗特有の複合的な構造問題でした。第一に挙げられるのが、店舗が入居していた自社ビルの老朽化と大規模改修のハードルです。耐震基準への適合や厨房設備・給排水の刷新には莫大な投資が必要であり、数か月にわたる休業を余儀なくされる状況にありました。
第二に、職人の高齢化と技術継承の壁です。紀の善の看板である抹茶ババロアやあんみつの寒天、炊き上げる小豆の管理は、長年の経験を持つ熟練職人の手作業に依存していました。飲食業界全体を覆う深刻な人手不足の中、創業家と現場を支える職人陣が「これまでと同じ妥協のないクオリティを維持し続けること」が物理的に困難になりつつあったのです。
第三に、原材料費やエネルギーコストの急騰です。上質な京都産宇治抹茶、厳選された小豆、純度の高い砂糖や生クリームを惜しみなく使用する紀の善の製造手法は、近年の原価高騰の直撃を受けました。「安易な値上げやレシピの簡素化によって、看板を汚したくない」という老舗の誇りと美学が、惜しまれながらも暖簾を下ろすという英断へと向かわせた決定打であったと分析されています。