欧米圏では「Equality」と「Equity」が政策論争において峻別されているのに対し、なぜ日本社会ではこの2語がこれほどまでに混同されるのでしょうか。その根底には、日本独特の集団主義と「出る杭を打つ」心理的同調圧力が深く関わっています。
社会心理学において指摘されるのが、「嫉妬に基づく平等主義(悪平等)」の存在です。人間には、他者が自分より多くの支援やリソースを得ている状態を見た際、それが客観的に見て正当な補正であったとしても「自分だけが損をしている」「あいつはずるい」と直感的に知覚する認知的バイアスが存在します。とりわけ「みんなと同じ」であることを美徳として内面化してきた教育環境では、他者と異なる対応を受けること自体が「特権」あるいは「不正」とみなされやすい土壌があります。
家族社会学の視点から見ても、同様の歪みが見受けられます。昭和・平成期に多く見られた「きょうだい全員に同じ額の小遣い、同じ習い事を与える」という親の育児方針は、一見すると偏愛のない理想的な教育に見えました。しかし、内向的な子と外交的な子、勉強が得意な子とスポーツに情熱を燃やす子に対して画一的なリソース配分を行うことは、個々の才能を伸ばす観点から見ればむしろ極めて不健全なアプローチです。心理的バウンダリー(境界線)が曖昧な家庭ほど、「個人の差異に応じた支援」を「贔屓(ひいき)」と誤認し、家族間の緊張を高めてしまう傾向があります。
「同じ条件で競わせることこそが正義である」という思い込みは、スタートラインがすでに異なる現実から目を背ける免罪符になり得ます。弱者が置かれた構造的なハンディキャップを無視し、「同じ土俵に立たせたのだから、負けたのは自己責任だ」と切り捨てる論理は、平等という言葉を都合よく利用した一種の暴力に他なりません。