柳条湖事件が関東軍の自作自演であったことは、終戦後の極東国際軍事裁判(東京裁判)や関係者の手記によって完全に裏付けられています。その中でも、事件の実務的指揮を執った花谷正(当時少佐、後に中将)が戦後、雑誌『別冊知性』(1956年)に寄せた手記「満州事変はこうして計画された」は、歴史の闇を白日の下に晒す生々しい告白として知られています。
花谷はその手記の中で、謀略の瞬間を極めて具体的に振り返っています。爆薬点火の瞬間、轟音とともに土砂が舞い上がったものの、爆破された線路幅はわずか数十センチメートル程度にとどまりました。直後に遠方から汽笛を鳴らしながら猛スピードで近づいてきた南満州鉄道の急行列車は、破壊されたはずのレールの上を激しい振動とともに通過し、何事もなく走り去ってしまったのです。
「列車が脱線転覆せず通過したとき、我々は作戦の失敗を悟り血の気が引いた」と関係者が述懐した通り、爆破そのものは物理的破壊としては稚拙極まりないものでした。しかし、関東軍司令部にとって物理的な成否は問題ではありませんでした。「爆破された」という事実と「中国軍の犯行である」というアナウンスさえ既成事実化してしまえば、事前に準備していた大部隊を一斉に進撃させる口実としては十分だったからです。
当時の報道各社もまた、この関東軍の発表を無批判に信じ込み、あるいは愛国熱に迎合して大々的に報じました。新聞各紙は号外を乱発し、「暴虐なる支那軍」「起て我が将兵」といった扇情的な言葉で国民の戦意を煽り立てたのです。現地で起きた極小の謀略劇は、メディアと熱狂的な世論の後押しを得て、国家を巻き込む制御不能の巨大津波へと増幅されていきました。