沖縄戦のガマにおいて、悲劇をより深刻化させた構造的要因が「軍民混在」でした。当初は住民の避難場所であったガマに、前線から後退してきた日本軍将兵が流入したことで、壕内の力関係は一変しました。
南城市にある「アブチラガマ(糸数壕)」は、全長約270メートルの自然洞窟で、もともとは糸数集落の指定避難壕でした。しかし1945年3月下旬、南風原陸軍病院の分室として指定され、約600人もの重傷兵が運び込まれました。麻酔なしの手術、足の切断、壊疽(えそ)した傷口に湧くウジ虫、立ち込める悪臭と湿気など、内部は過酷を極めました。
5月下旬に陸軍病院へ南部撤退命令が出された際、歩行不能な重傷兵には青酸カリ入りのミルクが配られたと伝えられています。軍の撤退後も住民や置き去りにされた兵士が残り、米軍の黄燐(おうりん)弾攻撃や投降勧告を受ける中で命を落としました。
さらに凄惨を極めたのが、糸満市にある「轟の壕」に代表される激戦地南部のガマです。首里司令部を放棄した日本軍が南部へ逃げ込むと、すでに住民で埋まっていたガマへ兵士たちが銃を構えて乱入しました。壕の奥の良い場所を兵士が占拠し、泣き声を上げる乳幼児を抱えた母親に対して「泣き止ませろ、さもないと殺す」と脅迫して窒息死させたり、米軍の投降勧告に応じようとした住民を「スパイ容疑」で射殺・斬首する事態が相次ぎました。
著名な「ひめゆりの塔」の直下にある伊原第三外科壕でも、沖縄師範学校女子部や沖縄県立第一高等女学校の学徒隊(ひめゆり学徒隊)が動員されていました。6月18日に突然の部隊解散命令が下された翌朝、壕は米軍の攻撃を受け、黄燐ガス弾などが投げ込まれました。壕内にいた約100名のうち、学徒・教師を含む80名以上が一瞬にして窒息死や火傷で命を奪われました。
これらの事例が示すように、ガマは単なる自然の防空壕ではなく、極限状況における国家権力(軍)と民間人の圧倒的な非対称性、そして軍隊が自国民を守らないという過酷な現実を浮き彫りにした場所でした。