鈴木康博の脱退について語られる際、世間では長らく「小田和正との決定的な仲違い」という単純な構図で片付けられがちでした。しかし、本人の告白手記や当時の特番インタビュー、制作関係者の証言を丹念に紐解くと、そこには表現者ゆえの根深い葛藤とアイデンティティの危機が存在していたことが分かります。
二人の出会いは横浜の名門・聖光学院高校時代にまで遡ります。東北大学へ進んだ小田和正と、東京工業大学で建築や制御を学んだ鈴木康博。理系のエリート学生だった二人は、音楽への情熱を共有しプロの世界へと飛び込みました。しかし、1970年代前半の長い下積み時代を経て、1979年に清水仁、大間ジロー、松尾一彦が加入し5人編成のロックバンドとして黄金期を迎えた頃、グループの内部力学に決定的な変化が生じます。
「さよなら」「Yes-No」「愛を止めないで」と、小田が手掛けたシングルが爆発的なミリオンセラーを記録するにつれ、世間の認知は「オフコース=小田和正のバンド」へと急速に傾斜していきました。本来、ウエストコースト・ロックやAOR、卓越したアコースティック・ギターのフィンガーピッキングを得意としていた鈴木康博にとって、シングルカットされる楽曲が小田の書いた切ないラブバラードに固定化されていく状況は、音楽家としての存在意義を揺るがす事態でした。
鈴木康博は自著や回顧インタビューにおいて、当時の心境を「小田の隣にいると、知らず知らずのうちに彼の才能に寄りかかってしまう。自分の音楽を100パーセント自分の責任で世に問いたい」と吐露しています。また、オフコースが巨大なビジネス複合体へと成長し、アリーナツアーや大規模プロモーションに追われる中で、純粋に楽曲作りに没頭できる環境が失われていったことも大きな要因でした。つまり、二人の間に生じたのは低俗な感情のもつれではなく、「対等な創作者であり続けたい」と願う鈴木の矜持と、グループの牽引役として絶対的な完成度を追求した小田のプロ意識との激突だったと言えます。