月岡芳年を語る上で欠かせないのが「狂気の天才」という言説です。一部の伝記やネット上の俗説では、芳年が血を見ることを異常に好み、自ら発狂して凄惨な絵を描き続けたかのように語られるケースが後を絶ちません。しかし、近世美術史の研究や当時の門弟たちの手記を精査すると、まったく異なる実像が浮かび上がってきます。
芳年が深刻な精神的打撃を受けたのは、明治5年(1872年)から明治6年(1873年)にかけての時期です。この頃、明治維新後の急激な西洋化によって浮世絵の需要が激減し、芳年は極度の生活苦に陥りました。画料は買い叩かれ、住居を転々とし、家具や衣服を質に入れ、冬場には暖を取るための薪すら買えない窮乏生活を強いられたのです。さらに、内縁の妻が家計を支えるために自ら遊郭に身を売るという悲劇も重なり、繊細な性格だった芳年は深刻な「神経衰弱(現在でいう重度のうつ病・適応障害)」を発症しました。
当時の記録によると、芳年は一時的に絵筆を握れなくなり、幻覚や不眠に苦しんだとされています。しかし、これは「狂気に駆られて猟奇画を描いた」のではなく、「過酷な経済的困窮と社会的孤立によるメンタルヘルスの破綻」でした。翌年に後援者の手厚い援助と医師の治療によって病勢が回復すると、芳年は画号を「大蘇芳年(大きく蘇るの意)」と改め、以前をはるかに凌駕する精緻で情熱的な作品を次々と生み出していったのです。