欧米から数年遅れて訪れた日本のトーキー革命は、独自の芸能史と深く結びついていたため、海外以上に複雑で痛切なドラマを伴いました。
日本における本格的なトーキー第1号となったのが、1931(昭和6)年に公開された松竹蒲田撮影所製作、五所平之助監督による『マダムと女房』です。土橋式松竹トークシステム(国産光学録音技術)を採用したこの喜劇映画は、劇作家の主人公が隣家のジャズバンドの騒音に悩まされるという、「音そのもの」をプロットの核に据えた画期的な構成でした。マダムを演じた伊達里子らの肉声やモダンなジャズ演奏、そして日常の物音が生々しく響き、当時の映画ファンに計り知れない衝撃を与えてキネマ旬報ベスト・テンの第1位に輝きました。
しかし、この華々しい成功の裏で直面したのが、日本独特の職能集団であった「活動弁士(活弁)」の衰退と抵抗です。日本のサイレント映画館には、スクリーンの横で登場人物の台詞を語り分け、状況を名調子で解説する弁士が不可欠な存在として君臨していました。人気弁士ともなれば主演俳優以上の高給を取り、独自のファン層を抱える巨大な興行価値を持っていたのです。
トーキーの普及は、彼らの存在意義を根本から奪うものでした。「映画が自分で喋るなら、弁士は不要になる」。映画会社がトーキー化を急ぎ、弁士の解雇や賃金カットを進めると、東京や大阪の劇場街では大規模な弁士ストライキやデモ行進、労働争議が勃発しました。警察が出動し、劇場前で流血沙汰の衝突が起きるほどの社会的混乱へと発展したのです。昭和初期の演劇雑誌や関係者の回想録には、「スクリーンの裏で機械のコードを弁士が切断した」「トーキー上映中に弁士が怒号を上げて妨害した」といった生々しい現場の軋轢が記録されています。
だが、時代の趨勢を止めることは叶いませんでした。劇場の音響システム整備が進むにつれて弁士の居場所は失われ、数千人規模で存在した活動弁士は急速に姿を消していきました。彼らの一部はラジオの演芸や漫談、声優の世界へと活路を見出しましたが、技術の進歩が一つの確立された話芸文化をほぼ壊滅に追いやった歴史的事実として、メディア史に重い教訓を刻んでいます。