赤の女王仮説が進化生物学において金字塔と称される決定的な理由は、生物学界最大のパラドックスであった「有性生殖の起源」を論理的に説明した点にあります。
冷静に計算すれば、オスとメスが交配して子孫を残す有性生殖は、単独で自分のコピーを増やせる無性生殖に比べて極端に非効率です。生物学ではこれを「有性生殖の2倍のコスト」と呼びます。無性生殖を行うメスは自身の子をすべてメスとして産み、その全員が子どもを産めるため、増殖スピードは有性生殖の単純計算で2倍になります。しかも、パートナーを探すエネルギーや求愛行動に伴う捕食リスク、交尾時の感染症リスクまで背負い込むことになります。進化論の冷徹な効率性から見れば、なぜオスという「自ら子どもを産まない性」が存在し続けているのか、長年解明されていませんでした。
この謎に終止符を打ったのが、赤の女王仮説を寄生者と宿主の攻防に応用した進化生物学者ウィリアム・ハミルトンらの研究です。無性生殖によるクローン増殖は、親と全く同じ遺伝子配列を持つ個体を大量生産します。これは平時においては極めて効率的ですが、世代交代のサイクルが圧倒的に早い細菌やウイルス、寄生虫に「遺伝子の鍵」を一度破られた瞬間、全滅することを意味します。
一方、有性生殖は毎世代、遺伝子のシャッフル(組換え)を強制的に発生させます。親とは微妙に異なる免疫防御パターンを持った子どもを産み出すことで、「世代ごとに鍵の形状を変え、寄生虫や病原体の進化追従を振り切る」ことが可能になるのです。人間を含む高等生物が莫大なコストを支払ってまで有性生殖を維持しているのは、急速に進化する病原体という名の「赤の女王」から逃げ切り、絶滅を回避するための絶対防衛策だったのです。