南禅寺水路閣はなぜ名刹に洋風橋?大反対の歴史と今も水が流れる驚きの真相

南禅寺水路閣はなぜ名刹に洋風橋?大反対の歴史と今も水が流れる驚きの真相

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南禅寺の境内に異国情緒あふれる赤煉瓦アーチ橋が存在する理由を理解するには、明治初期の京都が置かれていた過酷な社会的現実に目を向ける必要があります。1869年の東京奠都(事実上の東京遷都)により、天皇と皇族、政府高官、多くの商人たちが東京へ移住しました。当時の人口統計によると、京都の人口は一時、約35万人から20万人近くにまで激減し、都市経済は壊滅的な打撃を受けました。この未曾有の衰退から千年の古都を蘇らせる起死回生の策として打ち出されたのが、琵琶湖疏水事業でした。

琵琶湖から京都へ水を引くことで、水運を開き、灌漑や防火用水を確保し、さらには日本初の事業用水力発電所を建設して近代産業を興すという壮大なプロジェクトです。この一大事業を主導したのが第3代京都府知事の北垣国道であり、主任技師として抜擢されたのが、工部大学校(現・東京大学工学部)を卒業したばかりの弱冠21歳の若き技術者・田邉朔郎でした。

しかし、計画ルートが南禅寺の敷地内を横断することが判明すると、事態は紛糾します。千利休ゆかりの格式を誇る禅宗の聖地に、西洋式の土木建造物を通すなど言語道断であるとして、南禅寺の僧侶をはじめ、京都の文化人や伝統保守派市民から猛烈な建設反対運動が巻き起こりました。当時の資料や手記には、「寺院の尊厳と古都の風致を無惨に破壊するもの」として計画中止を迫る激しい抗議の声が記録されています。

それでも北垣と田邉は退きませんでした。動力ポンプのない時代、琵琶湖から自然流下だけで水を目的地まで運ぶには、極めて精密な標高差(等高線)の計算が求められ、地形上、南禅寺の境内を通過させるルート以外に選択肢が存在しなかったからです。そこで田邉朔郎は、景観破壊という批判に正面から向き合い、寺院の風致を損なわないための徹底的な設計変更を行いました。無機質な鉄橋ではなく、京都五山の重厚な木造建築に調和する赤煉瓦と花崗岩を用いたローマ風の連続アーチ構造を採用したのです。完成当初こそ「奇妙な異物」と眉をひそめた人々も、年月を経て煉瓦が苔むし、東山の自然と禅寺の佇まいに美しく馴染んでいく姿を目の当たりにし、次第にその卓越した先見性を認めることとなりました。

加藤 愛美
著者

加藤 愛美

マーケティングと消費者心理のトレンドを分析し、現代のヒット商品の背景を読み解きます。