是川銀蔵の歩んだ人生は、映画の脚本すら凌駕する波乱と挫折の連続でした。1897年(明治30年)に兵庫県赤穂郡の船大工の家に生まれ、尋常小学校を卒業した後は職を転々とします。青年期には朝鮮半島へ渡って製鉄や鉱山事業で財を成すものの、終戦によって全資産を接収され、文字通り一文無しとなって日本へ引き揚げてきました。
多くの人間が絶望の淵で打ちひしがれる中、銀蔵が取った行動は常軌を逸していました。大阪の中央図書館に日参し、3年間で数千冊の洋書や経済原典を読破したのです。アダム・スミスやカール・マルクスの古典的経済理論から、資本主義の循環構造、国際為替、産業サイクルの力学を貪るように頭へ叩き込みました。この「血肉となった理論体系」こそが、後の冷徹な銘柄選定を支える揺るぎない土台となったのです。
1960年、還暦を過ぎた60代の銀蔵は、妻が内職などで工面したわずかな軍資金をもとに株式市場へ本格参入を果たします。勘に頼る丁半博打が横行していた昭和の取引所において、彼のスタイルは異質を極めていました。新聞の片隅に載る小さな市況情報や輸出入統計、地政学的リスクの予兆を丹念に拾い上げ、将来の需要急増を先回りして仕込むスタイルを確立したのです。これこそが、後に「最後の相場師 是川銀蔵」と呼ばれる巨人の原点でした。