宮沢りえのアイデンティティの根底には、幼少期の複雑な生い立ちと、稀代のプロデューサー兼ステージママであった実母・宮沢光子氏(通称・りえママ)の存在があります。
宮沢りえは日本人の母と、オランダ人の父との間に生まれたハーフです。しかし、父親とは物心つく前に離別しており、父親の記憶はほとんどないと公言しています。女手一つでりえを育てる決意をした光子氏は、娘の類まれなる美貌と才能を見抜き、弱冠11歳でモデルデビューさせました。
1980年代後半から1990年代にかけて、「りえママ」の手腕は日本中を席巻しました。篠山紀信氏撮影による伝説的なヌード写真集『Santa Fe』(累計150万部超の歴史的大ヒット)の出版や、大手CMの大型契約を次々とまとめ上げ、宮沢りえを一躍トップスターへと押し上げました。しかしその裏で、母娘の関係は光と影を濃くしていきました。
1992年に日本中を揺るがした大相撲・貴花田(当時)との婚約と、わずか2か月での破棄は、その象徴的な出来事でした。梨園や角界という伝統社会に娘を取られることを恐れたりえママの強い介入が破談の原因であったと、当時多数のメディアで報じられました。その後、宮沢りえは激やせや自殺未遂騒動、芸能活動の休止とアメリカへの移住など、精神的・肉体的な極限状態へと追い込まれることになります。
2014年9月、光子氏は肝腫瘍のため65歳でこの世を去りました。世間からは「毒親」「過干渉」と批判されることも多かったりえママですが、晩年に至る過程で2人は関係を修復していました。宮沢りえは母の逝去に際し、所属事務所を通じて次のような追悼コメントを発表しています。
「生きる情熱、表現することの歓びを教えてくれた母でした。最期まで生きる強さを見せてくれた母を誇りに思います」
支配と依存という複雑な愛憎劇を経験しながらも、最後には母を一人の人間として許し、受け入れたこと。この精神的解放こそが、宮沢りえが森田剛との間で健やかな新しい家族像を築くための決定的な転換点となったのです。