公明党が現在の「連立与党の一翼」というポジションを確立するまでには、歴代委員長・代表による重大な政治的決断の積み重ねがありました。
日中国交正常化と野党外交を主導した竹入義勝体制
約20年に及ぶ長期政権を率いた竹入義勝委員長の最大の功績は、1972年の日中国交正常化における決定的な橋渡し役です。当時の中華人民共和国首脳(周恩来総理ら)と田中角栄首相との間を仲介し、「竹入メモ」と呼ばれる会談記録を作成して歴史的妥結への道を拓きました。中道政党として独自の存在感を発揮した竹入時代は、公明党の外交・平和路線の原点となっています。
新進党解党から1999年の自公連立樹立|神崎武法氏の舵取り
1990年代の政治改革期、公明党は非自民連立内閣(細川内閣)への参画や新進党への合流といった激動の再編期を経験します。新進党解党後の1998年に新生「公明党」を再結成し、初代代表に就任したのが神崎武法氏でした。
神崎代表は1999年、小渕恵三首相率いる自民党との間で「自公連立政権」を樹立するという歴史的決断を下します。当初は野党時代からの急激な方針転換に対する内外の批判もありましたが、福祉・教育政策の実現を最優先に掲げ、現在まで続く自公協力の強固な枠組みを完成させました。
2009年の下野と太田昭宏氏の苦闘
神崎氏の路線を引き継いだ太田昭宏代表は、自公政権下での地域密着型政治を推進しましたが、2009年の衆議院総選挙で民主党の歴史的旋風に巻き込まれ、党は惨敗、太田氏自身も東京12区で議席を失いました。太田氏は潔く辞任し、この敗北の灰の中から山口那津男新体制による粘り強い野党外交と党再生がスタートしたのです。