大化の改新(645年)以降の律令制において、全国は「五畿七道」と呼ばれる行政区分に整理されました。ここで生じる大きな疑問が、「海に面していない令制国甲斐国が、なぜ東海道に区分されたのか」という点です。
東海道といえば、東海道五十三次に代表されるように太平洋沿岸を走る街道のイメージが定着しています。しかし古代律令期における甲斐国は、官道網の整備過程で駿河国(現在の静岡県中部・北東部)や相模国(現在の神奈川県)との結びつきが極めて重視されました。富士川沿いの水運や各峠を越えるルートを通じて太平洋側と直結していたこと、さらに朝廷にとって不可欠だった軍馬の供給拠点「官牧(御牧)」が甲斐に多数配置されていた軍事的重要性が、東海道への編入を決定づけたと考えられています。
古代の甲斐国は行政区分として「山梨郡」「八代郡」「巨摩郡」「都留郡」という甲斐国四郡によって構成されていました。この枠組みは明治初期に至るまで千年以上もの長きにわたり維持されることになります。
ここで長年歴史ファンの間で議論されてきたのが「古代の甲斐国府はどこにあったのか」という問題です。中世以降、甲斐国の中心といえば武田氏が本拠とした甲府(躑躅ヶ崎館)を誰もが思い浮かべますが、古代律令制下の国府が置かれたのは甲府ではありません。近年の発掘調査や文献検証により、初期から中期にかけての国府庁舎は現在の笛吹市御坂町および春日居町周辺にあったことが確実視されています。国分寺跡や国分尼寺跡が笛吹市一宮町に現存している点も、古代の政治中枢が甲府盆地東部(笛吹市周辺)に置かれていた決定的な証拠となっています。