この動きを理解する上で外せない出来事が、前年の1873年に起きた明治六年政変です。朝鮮への使節派遣を巡るいわゆる征韓論争で、外遊から帰国した大久保利通や岩倉具視ら内治優先派と、西郷隆盛や板垣退助ら使節派遣派が激突。結果として敗れた板垣、後藤、江藤、副島らは一斉に下野(参議を辞職)しました。
政権中枢から弾き飛ばされた彼らは、大久保ら薩長閥に対抗するための新たな政治基盤を模索します。そこで1874年1月12日、日本初の本格的政治結社とされる愛国公党を結成。そのわずか5日後に提出されたアクションプランこそが民撰議院設立建白書でした。
建白書の草案は、イギリスの議会政治に詳しかった古沢滋(古沢宇美)や由利公正らが中心となり、英国公使館書記官アーネスト・サトウらの知見も取り入れながら練り上げられました。単なる感情論ではなく、欧米の近代立憲思想(天賦人権論や社会契約論)を巧みに武装した極めて高度な政策提言だったのです。