「富士山はずっと日本の最高峰であり続けてきた」という認識は、近代史の観点から見れば歴史的な誤解をはらんでいます。日清戦争の結果として1895年(明治28年)に締結された下関条約により、台湾が日本に割譲されたことで、日本の領土構造は劇的な変化を遂げました。
当時、台湾中央部にそびえる峻峰・玉山(ぎょくざん)を陸軍省参謀本部陸地測量部が測量したところ、その標高は3,952mに達することが判明します。富士山の標高3,776mを176mも上回る巨峰の出現に、当時の日本社会は大きな衝撃を受けました。
1897年(明治30年)、明治天皇はこの山に対し「富士山よりも新しく得た高い山」という意味を込めて「新高山(にいたかやま)」と命名しました。官報での布告を経て、正式に新高山が「大日本帝国最高峰」となった瞬間でした。学校教育の地理教科書にも「日本一高い山=新高山」と明記され、国民的な常識として定着していったのです。
太平洋戦争の開戦を告げる海軍の暗号電文「ニイタカヤマノボレ1208(12月8日に戦闘行動を開始せよ)」の符牒にこの名が採用された事実は、新高山が当時の国家意識においていかに絶対的な高みを象徴していたかを如実に物語っています。1945年の敗戦に伴う台湾返還によって、新高山は再び台湾の最高峰「玉山」へと戻り、富士山が半世紀ぶりに「日本最高峰」の座へと返り咲いたという経緯は、地政学と地理学が交錯した近代の希有な記憶と言えます。