三跪九叩頭の儀礼は、18世紀末に東洋と西洋の覇権が激突する火種にもなりました。1793年、イギリス国王ジョージ3世の特使として清を訪れた三跪九叩頭 マカートニー使節団の事件です。
産業革命を経て世界の海を制しつつあった大英帝国は、自由貿易の拡大と外交官の北京常駐を求め、全権大使ジョージ・マカートニーを派遣しました。しかし、迎えた清朝の第6代皇帝・乾隆帝の宮廷は、イギリス使節を対等な主権国家の代表ではなく、遠方から貢物を持参した「朝貢国」として扱いました。
清朝側は乾隆帝への謁見条件として当然のごとく三跪九叩頭を要求。これに対しマカートニーは「主権平等の原則に反する」として真っ向から拒否しました。彼は「自国の国王ジョージ3世に対するのと同様、片膝をつく礼(屈膝礼)であれば行う」と主張し、激しい外交交渉が繰り広げられます。
最終的に熱河の離宮で片膝をつく妥協案で謁見自体は果たされたものの、儀礼の壁を越えられなかったイギリスの要求はすべて退けられました。乾隆帝 マカートニー 拒否によって両国の通商交渉は完全に決裂。清朝の「天朝大国(中華が世界の中心であり、外国の物資など不要)」という頑なな態度は、約半世紀後の1840年に勃発するアヘン戦争へと直結し、東アジアが西欧列強の軍事力によって強制開国させられる遠因となりました。