無血開城とは?江戸総攻撃が回避された真相と勝・西郷会談の裏側

無血開城とは?江戸総攻撃が回避された真相と勝・西郷会談の裏側

無血開城とは?江戸総攻撃が回避された真相と勝・西郷会談の裏側について見逃せない 理由を厳選して解説いたします。

Q1:無血開城の正確な年号と日時はいつですか?
A1:江戸城の引き渡しが行われたのは、旧暦で慶応4年4月11日(新暦1868年5月3日)です。これに先立ち、予定されていた江戸総攻撃が中止と決まった運命の会談は、同年3月13日〜14日に行われました。

Q2:なぜ「無血」と呼ばれるのに戊辰戦争は続いたのですか?
A2:江戸城および江戸市街地における壊滅的な市街戦・流血が回避されたため「無血開城」と呼ばれます。しかし、徳川慶喜の恭順方針や城の明け渡しに承服できない旧幕臣(寛永寺の彰義隊)や、東北地方の奥羽越列藩同盟、会津藩、旧幕府海軍を率いた榎本武揚らは戦いを継続したため、戦争全体は函館五稜郭の投降(1869年)まで続きました。

Q3:勝海舟と西郷隆盛の会見場所はどこですか?
A3:歴史的会談が行われた場所は、主に現在の東京都港区高輪(三田)にあった薩摩藩蔵屋敷(第一回会談は高輪の下屋敷など諸説あり)とされています。現在、その跡地であるJR田町駅・都営地下鉄三田駅付近には「江戸開城 西郷南洲・勝海舟会談の地」の記念碑が建立されています。

Q4:英国公使ハリー・パークスはなぜそこまで強硬に戦争に反対したのですか?
A4:パークスは日本が全面的な内乱に突入して長期の無政府状態に陥れば、当時拡大していた英国との通商貿易が甚大な打撃を受けると懸念したためです。また、すでに降伏の意思を示している徳川慶喜を徹底的に殲滅することは、欧米近代の国際公法上、正当な交戦理由を欠く私怨の殺戮と見なされると軍事指導部に釘を刺したのです。

佐藤 大輔
著者

佐藤 大輔

最新のテクノロジーと生活デザインの融合をテーマに、国内外の最新トピックを発信しています。