なぜ尊王攘夷は倒幕へと暴走したのか?水戸学から明治維新への全貌

なぜ尊王攘夷は倒幕へと暴走したのか?水戸学から明治維新への全貌

なぜ尊王攘夷は倒幕へと暴走したのか?水戸学から明治維新への全貌について押さえておきたい 理由を厳選して解説いたします。

幕末の政治情勢を一層複雑にしたのが、尊王攘夷と公武合体の違いをめぐる激しい覇権争いです。両者の主張は、朝廷と幕府の関係性において真っ向から対立していました。

公武合体派は、弱体化した幕府と権威の高い朝廷(皇族)を結びつける(公武合体)ことで、国内の結束を取り戻し、幕府を中心とする体制を延命させようと図りました。和宮降嫁がその典型例であり、薩摩藩の島津久光や会津藩の松平容保らがこの路線を強力に推し進めました。一方、尊王攘夷派(特に長州藩主導)は「幕府ではなく朝廷が親政を行うべし」と主張し、朝廷内の尊攘派公卿・三条実美らと連携して政界を牛耳ろうと画策します。

この権力闘争がクライマックスを迎えた事件こそ、八月十八日の政変の真相です。1863年、過激化しすぎた長州藩打倒を図るため、薩摩藩と会津藩が極秘裏に手を組み、宮中警備を固めて朝廷から長州勢力と尊攘派公卿7名を武力追放しました。これにより長州藩は「朝敵」の汚名を着せられ、尊王攘夷派はいったん中央政界から完全に締め出される挫折を味わうことになります。

阿部 裕樹
著者

阿部 裕樹

マネー知識やキャリア形成に役立つノウハウを、初心者にも分かりやすく解説するのが得意です。