1977年当時、山口百恵は『横須賀ストーリー』や『夢先案内人』などの大ヒットを連発し、阿木燿子・宇崎竜童コンビによるエッジの効いたツッパリ路線やポップス路線で時代の頂点を極めていました。そうした中、プロデューサーの酒井政利氏は次なる展開として、フォークグループ「グレープ」の解散を経てソロ活動を本格化させていたシンガーソングライター・さだまさしへの楽曲提供を熱望します。
当時の歌謡界において、フォーク/ニューミュージック系のアーティストがトップアイドルへ楽曲提供することは極めて異例の試みでした。オファーを受けたさだまさしは、当時18歳になったばかりの山口百恵と対面した際、その年齢からは考えられない深みのある眼差しと静かな佇まいに強い衝撃を受けたといいます。
さだまさしは後年のインタビューや回顧録において、「彼女は18歳でありながら、どこか人生の哀歓を知り尽くしたような大人びた陰影を持っていた。だからこそ、小手先のアイドルポップスではなく、彼女の人生の重みに耐えうる本格的な『日本の叙情詩』をぶつけたかった」と証言しています。あえて18歳の少女に「明日嫁いでいく娘が母親への感謝を噛みしめる」という大人のテーマをぶつけた背景には、クリエイターとしての挑戦と、山口百恵という稀代の表現者に対する絶対的な信頼がありました。
また、本作における最大の言語的功績とも言えるのが「秋桜」の読み方です。もともと植物のコスモス(Cosmos)は「大春車菊(おおはるしゃぎく)」や「秋桜(あきざくら)」などと呼ばれていましたが、さだまさしが歌詞カード上で「秋桜」に「コスモス」というルビを振ったことで、日本人の言語感覚に「秋桜=コスモス」という認識が定着しました。ひとつの楽曲が国語の慣用表現を塗り替えた実例としても、極めて高い文化的価値を誇っています。