ネット上の歴史コミュニティやSNSでは、「長宗我部元親は大河ドラマの主人公として申し分ないのに、なぜNHKは二の足を踏むのか」という疑問が度々議論されています。そこには、大河ドラマ制作における「地理的制約」と「歴史的結末のダークさ」という2つの構造的要因が存在します。
第1の要因は、青年期から壮年期にかけての活動領域が「四国島内」に集中している点です。信長が上洛し、畿内を中心に天下布武を進めていた時期、元親は土佐の統一(安芸氏、一条氏の追放)から阿波・讃岐・伊予への侵攻に全力を注いでいました。中央の華やかな政治劇と距離があるため、かつての大河ドラマ制作陣の間では「全国的な視聴率を獲得するための舞台装置として地味に見えるのではないか」という固定観念が存在していました。
しかし、近年の歴史研究では「本能寺の変=四国問題・長宗我部説」が脚光を浴びています。織田信長が当初認めていた元親の四国切り取り自由方針を撤回し、三好氏と結んで四国征伐軍を編成したこと、そして元親の取次を務めていた明智光秀の重臣・斎藤利三の妹(石谷夫人)が元親の妻であったことなど、元親はまさに天下の政情を狂わせた「震源地」でした。中央と隔絶していたという見方はもはや過去の誤解であり、極上の政治サスペンスとしての再評価が進んでいます。
第2の要因であり、最大のハードルとされてきたのが「晩年の変貌と悲劇の結末」です。1586年、豊臣秀吉の命による九州平定(戸次川の戦い)において、元親が手塩にかけて育て上げた最愛の嫡男・長宗我部信親(のぶちか)が戦死します。この壊滅的な喪失を境に、知勇兼備の名君であった元親は精神の均衡を崩し、家中の反対を押し切って四男・盛親を後継に指名。異を唱えた一族の吉良親実や重臣たちを次々と処刑・粛清するという暗黒期に突入します。
かつての大河ドラマでは、主人公の晩節が陰惨に終わるプロットは敬遠されがちでした。しかし、北条義時の冷徹な粛清劇を描ききった『鎌倉殿の13人』が大絶賛された現代において、この「栄光からの転落と家族の崩壊」こそが、人間の業を抉り出す最高峰のドラマツルギーとして期待されています。