シシリエンヌという言葉を聞いて、誰もが真っ先に思い浮かべるのがガブリエル・フォーレ作曲の『シシリエンヌ ト短調 作品78』です。しかし、今日フルートの名曲として世界中で親しまれているこの楽曲は、最初から独立した小品として構想されたわけではありませんでした。その誕生経緯には、劇的な歴史の巡り合わせが存在します。
1893年、フォーレはモリエールの古典劇『町人貴族』の舞台付随音楽としてこの哀愁漂う旋律を作曲しましたが、劇場の財政破綻によって公演自体が頓挫。名旋律は一度、未完のまま引き出しの奥へと眠ることになります。その後1898年、親交の深かったイギリスのチェリスト、ウィリアム・ヘンリー・スクワイアのために、チェロとピアノのための作品(作品78)として改作・出版されたのが公の場での第一歩でした。
そして運命の歯車が大きく回ります。同じ1898年の夏、ロンドンで上演されるメーテルランクの戯曲『ペレアスとメリザンド』の劇付随音楽の作曲依頼がフォーレに舞い込みます。あまりの過密日程のため、フォーレは愛弟子であったシャルル・ケクラン(Charles Koechlin)にオーケストレーションを託しました。ケクランはチェロ版の旋律をフルートのソロへと見事に移し替え、木管楽器の素朴で神秘的な響きを最大限に引き出す極上のスコアを完成させました。
音楽史において特筆すべき逸話として、後にフォーレ自身が『ペレアスとメリザンド』から演奏会用管弦楽組曲を編んだ際、自ら他の楽章のオーケストレーションに大幅な筆を入れたのに対し、『シシリエンヌ』だけはケクランの手掛けたオーケストレーションの完璧さに感銘を受け、一切手を加えずにそのまま残したという事実が記録されています。師弟の信頼と天才の直感が交差したからこそ、世紀を超えて愛される奇跡の響きが誕生したのです。