1994年4月28日、前任の細川護煕首相が金銭疑惑などを理由に電撃辞任したことを受け、羽田孜は非自民・非共産連立政権の首班として第80代内閣総理大臣に任命されました。しかし、組閣当日から政権の屋台骨は修復不能な亀裂に見舞われます。
首相指名が行われた直後、新生党代表幹事の小沢一郎氏主導によって、日本社会党(現・社民党)を蚊帳の外に置く形で衆議院の統一会派「改新」の結成が発表されました。これに激怒した連立第1党の社会党は即座に連立政権からの離脱を通告。羽田内閣は、発足のファンファーレが鳴り響いた当日に、衆議院過半数を大幅に下回る「少数与党」へと転落する異常事態に陥ったのです。
報道各社の当時の記録によると、羽田孜本人は社会党との融和的対話を重視していたものの、剛腕を振るう小沢氏の強硬な政界再編戦略との間で激しい板挟みとなっていました。過半数を割り込んだ内閣の国会運営は困難を極め、野党へ転じた自由民主党からは連日厳しい揺さぶりを受け続けます。
それでも羽田内閣が政権を投げ出さなかったのは、当時停滞していた1994年度予算案の成立という至上命題があったためです。バブル崩壊後の深刻な景気後退に直面していた日本経済を救うため、羽田首相は自民党の批判に耐え忍びながら予算成立に全霊を注ぎました。
そして同年6月23日、年度予算が自然成立した直後、自民党は羽田内閣不信任決議案を衆議院に提出します。内閣には「衆議院解散・総選挙」か「内閣総辞職」の二者択一が突きつけられました。側近議員からは解散で民意を問うべきだとの強硬論も噴出しましたが、羽田首相が下した決断は内閣総辞職でした。
なぜ伝家の宝刀を抜かなかったのか。当時、細川内閣で成立していた政治改革関連法案は、まだ具体的な「小選挙区の区割り法案」が成立しておらず、もし解散を行えば、自らが打破しようとした旧来の中選挙区制で選挙を行わなければならなかったからです。羽田首相は自らの権力延命を捨て、政治改革を後戻りさせないための防波堤となって退陣を受け入れました。在任64日という数字は、無能による崩壊ではなく、制度改革のバトンをつなぐための計算された散り際でもありました。