「柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺」の真相|漱石との絆と東大寺説の謎

「柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺」の真相|漱石との絆と東大寺説の謎

「柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺」の真相|漱石との絆と東大寺説の謎の基本情報から最新動向までを徹底的にカバーしました。

この名句が世に出たのは、1895年(明治28年)11月8日付の地方紙『海南新聞』です。当時、日清戦争に従軍記者として渡航した正岡子規は、船中で喀血して重態に陥り、帰国後に松山で療養生活を送っていました。

その療養先が、松山の中学校で英語教師をしていた親友・夏目漱石の下宿(愚陀仏庵)でした。子規はおよそ2カ月間にわたって漱石の部屋に転がり込み、俳句の指導を行いながら手厚い看護を受けました。漱石は子規の旺盛な食欲と文学への情熱を温かく受け止め、子規が東京へ戻る際には、なけなしの金から旅費として15円(現在の価値でおよそ30万〜40万円相当)を手渡したと記録されています。

その旅費を使って子規が立ち寄ったのが、かねてより念願だった奈良・斑鳩の地でした。そして漱石は、子規が松山を去る直前に次の句を詠んでいました。

「鐘鳴けば 旅の夕飯 柿二つ」(夏目漱石)

子規は奈良の地でこの漱石の句を強く意識し、親友への返歌として、また俳句革新運動を牽引する自らの腕前を示す渾身の作として「柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺」を紡ぎ出したのです。貧しくも文学で魂を通い合わせた青年二人の絆が、この名句の原動力となっていました。

中村 さくら
著者

中村 さくら

エンタメ・カルチャー業界の深掘り取材を得意とし、現場のリアルな声をお伝えします。