映画『火垂るの墓』において、衰弱していく節子を必死に介抱し、母の形見の着物を売ってまで食べ物を調達しようとする清太の姿は、多くの観客の涙を誘いました。しかし、野坂氏がのちに自伝的小説や手記『骨餓身峠死人葛』などで赤裸々に綴った「現実の光景」は、あまりに凄惨なものでした。
戦火を逃れた野坂少年と妹は、親戚を頼って福井県三国町へと疎開しました。しかし、そこには親戚からの温かい庇護はなく、食糧難の煽りを受けた冷淡な対応が待ち受けていました。当時、成長期の真っ只中で極度の飢餓状態に陥っていた14歳の少年に対し、1歳の乳児が飢えから夜通し激しく泣き叫び続けます。野坂氏は後年のインタビューや手記において、次のような痛恨の告白を残しています。
「自分自身が飢えて気が狂いそうだった。配給されたわずかな粥を、妹の口へ運ぶふりをして、喉の奥へ流し込んだのは自分だった」
「泣き止まない妹の頭を、苛立ちに任せて平手で殴りつけたことがある」
そして1945年8月下旬、日本が無条件降伏を受け入れて戦争が終わった直後、義妹・恵子ちゃんは福井の地で餓死しました。骨と皮ばかりになった亡骸は、両手で容易に持ち上がるほど軽くなっていたといいます。炎天下の野原で妹の遺体を自らの手で荼毘に付した瞬間、少年の心に湧き上がったのは、悲哀以上に「これで煩わしい重荷から解放された」という恐ろしい安堵感でした。
終戦後、焼け跡の闇市を逞しく生き抜き、文名を馳せて社会的成功を手に入れた後も、その記憶が野坂氏の脳裏から消えることはありませんでした。「妹を殺したのは自分ではないか」という拭い難いサバイバーズ・ギルト(生き残った者の罪責感)こそが、野坂氏を『火垂るの墓』の執筆へと駆り立てた真実の動機だったのです。