竹中半兵衛の早すぎる死については、古くから多くの議論が交わされてきました。『信長公記』や『武功夜話』などの記録を照合すると、その死因は戦傷ではなく、重い病魔に侵された末の病没であることが明らかです。
医学史的見地および当時の記述(喀血や極度の衰弱など)から、死因の最有力説は「肺結核(当時は労咳・伝染病の一種)」、あるいは進行性の悪性腫瘍(胃がんなど)と推測されています。半兵衛はもともと体が頑健ではなく、痩身で女性のような優美な容貌であったと伝えられますが、中国攻めの過酷な軍務がその病勢を決定的に悪化させました。
見かねた羽柴秀吉は、半兵衛に京都での静養を命じ、名医の手配を行いました。しかし、自らの死期を悟った半兵衛は「陣中で死ぬことこそ武士の本懐」と言い放ち、周囲の制止を振り切って播磨平井山の本陣へと帰還します。陣中に戻ってわずか数日後、秀吉や家臣たちに見守られながら36年の短い生涯を閉じました。主君のために最後まで知略を尽くそうとしたその引き際は、後世の武士道の手本として語り継がれています。