柳生新陰流の歴史を紐解く上で、起点となるのは戦国末期の永禄6年(1563年)における運命的な出会いです。大和国(現在の奈良県)の豪族であった柳生宗厳(石舟斎)のもとに、新陰流の開祖である上泉伊勢守信綱が訪れました。
当時、すでに畿内に名を知られた槍や刀の達人であった宗厳は、信綱の弟子である疋田文五郎や信綱自身に木刀で挑むものの、ことごとく完敗を喫します。信綱が開発した、割竹を牛革で包んだ「袋竹刀(ふくろしない)」による安全かつ本気の立ち会いは、寸止めや怪我の恐怖を排除し、真剣の理合を極限まで追求することを可能にしました。
宗厳はその場で信綱に弟子入りを志願。修行を重ねた宗厳に対し、信綱は「素手で刀を持った敵を制する工夫」という究極の課題を課しました。これに応えて宗厳が工夫を重ね、編み出したのが名高い「無刀取り(むとうどり)」です。永禄8年(1565年)、信綱は宗厳の到達した境地を認め、新陰流の正統を示す免許皆伝の目録(影目録)を授与しました。ここに「柳生新陰流」の実質的な歴史が幕を開けたのです。