千人塚という言葉を紐解く際、まず理解すべきは千人塚の意味です。日本語における「千」という数字は、千人風呂や千人針という言葉が示すように、厳密な数量の「1,000人」だけを指すのではなく、「数え切れないほど無数の人々」という比喩的なニュアンスを内包しています。各地に残る千人塚の由来を精査すると、その背景は大きく2つの歴史的要因に大別されます。
1つ目は、中世から近世にかけて繰り広げられた武力衝突、すなわち千人塚と合戦の犠牲者にまつわる歴史です。戦国時代の攻城戦や野戦では、名のある武将だけでなく、足軽や雑兵、さらには戦火に巻き込まれた領民が一度に命を落としました。合戦直後の戦場には膨大な数の遺骸が遺棄され、放置すれば疫病の発生源となるだけでなく、怨霊となって祟りを成すと恐れられました。戦火が収まった後、勝者側あるいは生き残った村人たちが敵味方の区別なく遺骸を一箇所に集めて埋葬し、塚を築いたのが合戦系千人塚の始まりです。
2つ目は、江戸時代を中心に列島を何度も襲った千人塚と飢饉・疫病の悲劇です。天保の大飢饉(1833〜1837年)や天明の大飢饉(1782〜1788年)では、冷害や浅間山噴火による降灰が引き金となり、農村部で壊滅的な食糧危機が発生しました。道端に行き倒れた流民や飢死者の遺体は、個別の墓を建てる余裕すらなく、寺院の境内や村外れの境界地に掘られた大穴へまとめて埋葬されました。そこへ村名主や有志が浄財を募り、無縁仏となった犠牲者の魂を鎮めるために千人塚の供養塔を建立したのです。