信玄と謙信は1553年から1564年にかけて計5回にわたり川中島で対陣しました。なかでも最大の激戦となったのが、1561年(永禄4年)の第四次川中島の戦い(八幡原の戦い)です。
武田軍は軍師・山本勘助や馬場信春の進言による「啄木鳥(きつつき)戦法」を採用。軍を二手に分け、別動隊が妻女山に陣取る上杉軍を背後から突き、驚いて平野部へ降りてきた敵を本隊が挟撃する作戦を企図しました。しかし、越後の軍神は立ち上る炊煙の異常から作戦を看破。夜闇に乗じて山を駆け下り、八幡原に布陣していた信玄本隊に車懸りの陣で怒涛の奇襲を仕掛けます。
激戦のなか、武田側は信玄の弟・武田信繁や山本勘助、諸角虎定といった重臣を多数失う壊滅的打撃を受けました。しかし、後方から別動隊が到着したことで上杉軍を挟撃し、謙信を撤退に追い込みます。戦術的には武田本隊を崩滅寸前まで追い詰めた上杉軍の鮮やかな奇襲でしたが、戦場を最終的に掌握し北信濃の支配権を確立した点において、戦略的な勝敗は武田軍の勝利と評価されています。
信玄軍配と謙信太刀「一騎打ちの真相」
第四次合戦で最も有名な場面が、白頭巾姿の謙信が単騎で武田本陣に突入し、馬上から切りつけた刃を床几に腰掛けた信玄が軍配で受け止めたという「三太刀七太刀」の一騎打ち伝説です。
この劇的なシーンは軍学書『甲陽軍鑑』に詳細に記され、江戸時代の芝居や浮世絵を通じて定着しました。当時の武家作法や一次史料『上杉家文書』の分析では、謙信自ら本陣に斬り込んだ可能性は低いとする説が有力ですが、近接戦闘で信玄の本陣が乱戦に陥り、総大将同士が肉薄する極限状況が生じたこと自体は事実と認められています。