教科書や一般的な歴史解説では、「皇帝が雪の中で泣きついて教皇に屈伏した」という場面ばかりが強調されがちです。しかし、政治闘争の実態をつぶさに観察すると、この土下座はハインリヒ4世による極めて冷徹な政治的逆転劇の始まりでした。
もしハインリヒ4世が意地を張って雪中に跪かなければ、どうなっていたでしょうか。教皇はそのままドイツへ進軍し、反乱諸侯と合流してハインリヒ4世を法廷で正式に裁き、確実に帝位を剥奪していたはずです。ハインリヒ4世はプライドを完全に投げ捨てることで教皇の宗教的職務を逆手にとり、破門解除をもぎ取りました。これによって、反乱諸侯が掲げていた「破門された皇帝を倒す」という正当な大義名分を粉砕したのです。
ここから、ハインリヒ4世の凄まじい反撃が始まります。破門を解かれた皇帝はドイツへ電撃帰国すると、諸侯が擁立した対立王ルドルフとの血みどろの内乱に突入。1080年、ハインリヒ4世は戦場でルドルフの右手を切り落として討ち取り、国内の反乱軍を完全に粉砕しました。
窮地に陥ったグレゴリウス7世はハインリヒ4世に対して2度目の破門を宣告しますが、もはや一度使った切り札に初弾ほどの威力はありませんでした。ハインリヒ4世は破門を完全に黙殺し、大軍を率いてアルプスを南下。ローマへ武力侵攻を開始したのです。
1084年、ハインリヒ4世はローマを完全包囲して占領。グレゴリウス7世をサンタンジェロ城に孤立させ、自ら擁立した対立教皇クレメンス3世の手によって正式に神聖ローマ皇帝としての戴冠式を挙行しました。グレゴリウス7世は南イタリアのノルマン軍に救出されたものの、ローマ市街地が略奪されたことで市民の怒りを買い、逃亡を余儀なくされます。そして1085年、避難先のサレルノで失意のうちに生涯を閉じました。死に際に教皇が残したとされる言葉は痛切を極めます。
「私は正義を愛し、不義を憎んだ。それゆえに私は亡命の地で死ぬ」
教皇の死後も叙任権闘争は続きましたが、事件から45年後の1122年、ハインリヒ4世の息子ハインリヒ5世と教皇カリクストゥス2世の間で結ばれた「ヴォルムス協約」によって最終決着を迎えました。霊的権威の象徴(杖と指輪)は教会が授け、世俗財産・土地の象徴(笏)は皇帝が授けるという権力分担の合意です。カノッサの屈辱は、単なる皇帝の恥辱劇ではなく、双方が血を流し尽くした末に「政教分離」の道へと踏み出す決定打となったのです。