柴田の芸能界復帰後もコンビでの活動が一切再開されなかったことから、芸能マスコミやネット掲示板では「山崎が柴田を許していない」「山崎側からの共演NG指定」「修復不能なコンビ不仲」といった言説が定説のように語られ続けました。しかし、関係者の証言や後に本人が語った回顧録を検証すると、事実はまったく異なる文脈を持っていたことが分かります。
当時、相方の山崎弘也は単独でバラエティ界のトップスターへと登りつめており、数多くのレギュラー番組を抱える超売れっ子となっていました。山崎が自身の番組に柴田を呼び、コンビ復活をアピールすることはキャスティングの権限上、決して不可能ではありませんでした。しかし、山崎はあえてそれを頑なに拒み続けました。
後に柴田自身が特番インタビューなどで明かしたところによると、山崎の真意は「柴田が一人でバラエティ番組に呼ばれ、ピン芸人として実力を認められる状態になるまで組まない」という極めてストイックなプロの判断でした。山崎の知名度や同情票に乗っかる形で漫才を再開すれば、柴田自身の芸人としての再起の芽を摘み、コンビの力関係もいびつなものになってしまうという懸念を抱いていたのです。
一方の柴田も、自らの軽率な行動で相方に多大な迷惑をかけた負い目から、動物関連番組や地方ロケ、単独のひな壇トークなどで泥臭く実績を積み重ねていきました。「山崎と再び並ぶ資格を得るまでは頼らない」という柴田の覚悟と、安易に手を差し伸べない山崎の厳しさは、一見すると不仲や絶縁に見えながらも、根底では強固な職人的リスペクトで結ばれていた証左といえます。
また、なぜ解散しなかったのかという点について、プロダクション人力舎の寛容なマネジメント方針と、両者が「いつか漫才を再開する」という暗黙の約束を破棄しなかったことが挙げられます。どちらからも解散届は出されず、コンビの看板は静かに守られ続けました。