四国の県庁所在地はなぜ県名と違う?高松・松山誕生の歴史と覚え方

四国の県庁所在地はなぜ県名と違う?高松・松山誕生の歴史と覚え方

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最大の疑問である「県名と県庁所在地が異なる理由と真相」を解き明かすには、明治4年(1871年)の廃藩置県と、その後の大規模な府県統合の歴史を紐解く必要があります。高松市と松山市が県庁所在地として定着し、一方で県名に旧国名や都市名がそのまま使われなかった背景には、各地域固有の事情が存在しました。

香川県高松市県名と違う理由|激しい綱引きと「香川郡」の採用

江戸時代の讃岐国(現在の香川県)には、親藩の高松藩(松平家)のほか、外様の丸亀藩(京極家)、さらに多度津藩などが分立していました。廃藩置県直後、当初は高松県や丸亀県などが乱立しましたが、政府による統合が進められる中で、県庁をどこに置くか、県名をどうするかで激しい主導権争いが勃発します。

経済的・軍事的な拠点性においては、旧城下町として圧倒的な人口と港湾機能を誇っていた高松が有利でした。しかし、高松藩だけを優遇するような「高松県」という名称を採用すると、ライバル関係にあった丸亀側の反発を招く恐れがありました。そこで明治政府は、高松城が所在していた「香川郡」という郡名を県名として採用し、県庁を高松に置くという政治的決着を図ったのです。その後、香川県は一時的に愛媛県へ編入(併合)されるという屈辱的な時代を経て、明治21年(1888年)に全国で最も遅く「独立した県」として復活を遂げました。この復活運動の拠点となったのも、他ならぬ高松の地でした。

愛媛県松山市歴史の経緯|古事記の神話と多藩分立の融和策

愛媛県における県名と県庁所在地の解離は、さらに劇的な経緯を辿っています。江戸時代の伊予国(現在の愛媛県)は「伊予八藩」と呼ばれ、松山藩、今治藩、宇和島藩、大洲藩など小藩が細かく割拠していました。その中で最大の城下町を誇ったのが松山藩(15万石)でした。

廃藩置県後、東予・中予・南予の各地域を束ねるにあたり、当初は松山県や宇和島県などが誕生しました。しかし明治6年(1873年)、これらを統合して単一の県を創設する際、旧松山藩の影響力を薄め、多藩分立による遺恨を解消する必要に迫られます。そこで選ばれたのが、日本最古の歴史書『古事記』の国生み神話に登場する伊予国の神名「愛比売命(えひめのみこと)」に由来する「愛媛県」という名称でした。

「愛比売」は「愛くるしい乙女」を意味する麗しい名称であり、地域間の優劣を感じさせない中立的なシンボルとして採用されたのです。県庁は旧伊予八藩の中で最も都市機能と人口が集積していた旧松山城下に置かれたため、「愛媛県松山市」という美しい組み合わせが成立しました。

徳島市と高知市が県名と一致した決定的な違い

これに対し、徳島県徳島市と高知県高知市があっさりと一致したのはなぜでしょうか。理由は極めて単純明快で、「江戸時代に一国を一藩が単独で統治していたから」に他なりません。

徳島藩は蜂須賀家が阿波一国(25万7000石)を治め、土佐藩は山内家が土佐一国(24万2000石)を一円支配していました。域内にライバルとなる大藩が存在せず、藩政時代から「徳島城下」「高知城下」が地域全体の絶対的な中心地として君臨していたため、県名・県庁所在地名を巡る激しい地域間対立が起きる余地がなかったのです。

木村 陽翔
著者

木村 陽翔

デジタルガジェットとスマート家電の検証記事を多数執筆。失敗しないモノ選びを提案します。