国民の激しい怒りに直面した明治政府は、座視することを許されませんでした。外務省はイギリス側に対し、ドレイク船長を刑法上の殺人罪で横浜の英国高等領事裁判所に正式告訴する異例の措置に踏み切ります。
1886年12月8日、横浜で行われた再審判決において、陪審員は殺人罪こそ適用しなかったものの、ドレイク船長に対して「職務怠慢罪による禁錮3か月」の実刑判決を下しました。日本人乗客25名の尊い命が奪われた結果としてはあまりに軽微な量刑であり、遺族への賠償金支払いすら命じられませんでしたが、それでも「イギリス人がイギリスの法廷で有罪を宣告された」という事実は、日本の執念が勝ち取った歴史的一歩でした。
そしてこの屈辱と悔恨は、日本の法制整備と外交戦略を根本から変革させる起爆剤となります。近代的な刑法や民法の制定を急ピッチで進め、「裁判を外国人に委ねる口実」を徹底的に排除する法治国家の骨格が作られていきました。
この悲願を受け継ぎ、結実させたのが、後に「剃刀大臣」と称された外務大臣・陸奥宗光です。陸奥は、単なる感情論や妥協の産物ではなく、台頭するロシアの脅威に対抗したいイギリスの世界戦略(グレートゲーム)を冷徹に読み切りました。
事件から8年後の1894年(明治27年)、陸奥宗光の手腕によって「日英通商航海条約」が調印され、幕末以来日本を縛り続けてきた領事裁判権(治外法権)の完全撤廃が達成されたのです。ノルマントン号の沈没という悲痛な犠牲は、日本が不平等条約の鎖を断ち切り、国際社会に対等な主権国家として立ち上がるための最大の原動力となりました。