漢方医学において当帰芍薬散は、血液の巡りを補い整える「補血(ほけつ)」と、体内の余分な水分を排出して滞りを解消する「利水(りすい)」を兼ね備えた代表的方剤です。トウキ(当帰)、シャクヤク(芍薬)、センキュウ(川芎)、ビャクジュツ(白朮)、ブクリョウ(茯苓)、タクシャ(沢瀉)の6種類の生薬で構成されています。古くから女性三大処方の一角として重用されてきましたが、この処方が耳鼻咽喉科の領域で脚光を浴びたのは、感冒後嗅覚障害に対する漢方治療の臨床研究が進展したことが契機でした。
かぜやウイルス感染に伴う嗅覚障害では、鼻腔の最上部にある「嗅上皮(きゅうじょうひ)」に存在する嗅神経細胞がウイルスによる直接の攻撃や過剰な炎症によって広範に脱落します。人間の神経系のなかで、嗅神経は成体になっても自ら分裂・再生を繰り返す極めて稀有な神経組織です。しかし、基底細胞から新しい嗅細胞が生まれ、鼻腔から頭蓋骨の篩板(しばん)を貫いて大脳の嗅球へと軸索を伸ばすためには、豊富な毛細血管網による酸素と栄養の供給が欠かせません。
当帰芍薬散が嗅覚改善をもたらすメカニズムとして、現代医学では以下の3点が実証されています。
- 嗅粘膜の微小循環改善:センキュウやトウキの血管拡張作用および血流促進効果により、炎症で阻害された局所の血行を劇的に回復させ、組織の虚血状態を解除します。
- 神経栄養因子(NGF/BDNF様作用)の活性化:動物実験および基礎研究において、当帰芍薬散の投与により嗅粘膜組織内での神経栄養因子の発現が促され、軸索の伸長がサポートされることが確認されています。
- 組織浮腫の消退:ブクリョウやタクシャの利水作用が、ウイルス感染後の慢性的な粘膜浮腫を取り除き、嗅神経受容体が気流中のにおい分子を捉えやすい物理的環境を整えます。
つまり、当帰芍薬散は「女性ホルモンを増やす薬」ではなく、「微小血管の血行を改善し、傷ついた末梢組織の再生基盤をつくる薬」です。この生化学的な作用機序は性別を問わず等しく働くため、男性の嗅覚障害に対しても何ら遜色なく用いられます。