安元の大火は、後世において「太郎焼(たろうやけ)」とも通称されます。この奇妙な名称の由来と、出火の現場で何が起きていたのか、同時代の公卿日記と照らし合わせると戦慄すべき実態が浮かび上がります。
【火元「樋口富小路」の地理的罠】
出火地点とされる樋口富小路(ひぐちとみのこうじ)は、現在の京都市下京区、万寿寺通と富小路通が交差する付近にあたります。当時、ここは病人を収容する粗末な仮屋が立ち並ぶ区画でした。当時の日記『百錬抄』や関白・九条兼実の日記『玉葉』の安元3年4月28日条にも同様の火災記録があり、火勢が強風に乗って瞬く間に北西方向へ進んだことが一致して記されています。
【飛び火現象と「太郎焼」の呼称】
『方丈記』にある「炎、風に吹き切られて、飛ぶがごとくして、一町二町を越えつつ移り行く」という記述は、現代の火災工学でいう「飛び火(火の粉による遠隔延焼)」を完璧に描写しています。瓦葺きではなく檜皮葺(ひわだぶき)や板葺きが主流だった平安貴族の寝殿造は、飛来する火の粉に対して極めて脆弱でした。
翌治承元年(1177年)にも再び都で大火が発生した際、庶民はこの最初の安元の大火を長男に見立てて「太郎焼」、翌年の火災を「次郎焼」と呼び習わしました。自虐的な命名の裏には、逃げ場を失い、財産をことごとく焼き尽くされた庶民たちのやるせない怒りと恐怖が刻まれています。