『騎士団長殺し』のクライマックスにおいて、行方不明になった秋川まりえを捜し出すため、「私」は騎士団長を自らの手で刺殺し、深層世界の暗闇へと潜入します。そこで現れる「顔のない男」の導きを受け、狭隘な穴を命からがら這い上がった「私」は、アトリエの庭にある祠から現実へと生還を果たしました。
この過酷な精神的試練を終えた後、物語は急速に現実の日常へと着地します。「私」は離婚しかけていた妻・柚と寄りを戻し、彼女のお腹の中にいた女児「室(むろ)」を受け入れ、血のつながった実の娘として育てていくのです。
ここで重要な問いが浮かび上がります。「室の遺伝上の父親は誰なのか?」という点です。
柚は作中で「私」以外にも相手がいたことを示唆しており、免色渉とまりえの関係と同様、遺伝的な父性はあえて確定されないまま物語は幕を閉じます。しかし村上春樹が提示した答えは明快です。「私」は地下を巡る試練を通じて、目に見える血のつながり(生殖)を越え、自らの意志で命を引き受ける精神的な父親となったのです。悪夢のような暴力と歴史のトラウマをくぐり抜けた先に、新しい命を無条件に肯定する光を見出す結末となっています。