池田佳隆の出自を遡ると、彼がなぜ特権的な意識を持ち、最終的に破滅へと向かったのかという背景が色濃く浮かび上がります。池田は1966年、愛知県名古屋市に生まれました。実家は地元で屈指の知名度を誇る総合広告代理店「株式会社三晃社」であり、創業者を祖父に持ち、父親も社長を務めた名門一族の「お坊ちゃん」として育ちました。
成城大学大学院を修了後、家業である三晃社に入社し、30代前半という若さで代表取締役社長に就任。さらに2006年には、全国の若手経済人を束ねる公益社団法人日本青年会議所(日本JC)の第55代会頭に就任しました。このJC会頭時代に、当時第1次内閣を発足させていた故・安倍晋三元首相と急接近し、保守的な国家観をアピールして政治への野心を強めていったとされています。
2012年の第46回衆議院議員総選挙で愛知3区から自民党公認で出馬。小選挙区では民主党(当時)の重鎮に敗れたものの、比例東海ブロックで復活当選を果たし、以後4期連続当選を重ねました。第1次・第2次岸田内閣では文部科学副大臣兼内閣府副大臣に抜擢されるなど、安倍派のホープとして順風満帆な出世コースを歩んでいたのです。
しかし、地元有権者や政界関係者の間での池田佳隆の評判は決して芳しいものではありませんでした。「常に比例復活頼みで地元活動を軽視していた」「JC時代の仲間や支援企業を見下すような言動が目立った」「派閥の威光を傘に着た横柄な振る舞いが多かった」といった証言が地元政界関係者から噴出しており、強固な草の根の支持母体を築けていなかったことが、失脚後の孤立を決定づけました。