徳川慶喜は大坂城からなぜ敵前逃亡した?大政奉還の裏と子孫の今

徳川慶喜は大坂城からなぜ敵前逃亡した?大政奉還の裏と子孫の今

徳川慶喜は大坂城からなぜ敵前逃亡した?大政奉還の裏と子孫の今の背景について、分かりやすい解説を詳しくお届けします。

大坂城から軍艦・開陽丸で江戸へ逃れた慶喜が取った行動は、主戦派幕臣の期待を完全に裏切る「徹底恭順」でした。小栗忠順らが主張した「箱根で官軍を迎え撃ち、艦隊で退路を断つ」という迎撃作戦を即座に却下。慶喜は上野の寛永寺大慈院に引き籠もり、飲食を減らして仏前に平伏し、一切の反抗の意志がないことを朝廷に示し続けました。

この慶喜の絶対恭順の姿勢があったからこそ、勝海舟と西郷隆盛の歴史的会談が結実し、1868年(慶応4年)4月11日の「江戸城無血開城」が実現しました。もし江戸が焦土作戦の戦場となっていた場合、イギリスやフランスの軍事介入を招き、日本がアジア諸国のように欧米列強の植民地・半植民地となっていたリスクは極めて高かったと軍事史研究者からも指摘されています。

この激動のさなか、フランス・パリ万国博覧会へ派遣されていたのが、慶喜の弟・昭武に随行していた若き日の渋沢栄一でした。慶喜の一橋家家臣として登用され、その才能を見出された渋沢は、幕府崩壊の報を異国の地で耳にします。帰国後、謹慎の身となった慶喜と静岡で再会した渋沢は、主君の潔い姿に涙し、生涯にわたる忠誠を誓いました。

渋沢栄一は明治以降、日本資本主義の父として500以上の企業設立に関わりながら、私財と膨大な労力を投じて慶喜の名誉回復に奔走しました。晩年に編纂した全8巻におよぶ大著『徳川慶喜公伝』の刊行記者会見において、渋沢は「公(慶喜)の真意を歴史の闇に葬ってはならない」と語り、朝敵の汚名を着せられた主君の功績を後世に正しく残すことを自らのライフワークとしたのです。

松本 悠斗
著者

松本 悠斗

マネー知識やキャリア形成に役立つノウハウを、初心者にも分かりやすく解説するのが得意です。