弁慶という人物は、後世の文豪が生み出した架空のキャラクターなのでしょうか。その実在性を巡る論争に決定打を与えているのが、鎌倉幕府の公式記録である『吾妻鏡』です。
『吾妻鏡』文治元年(1185年)11月6日条には、兄・源頼朝と対立した義経が京都を落ち延びる際の一行として、以下の通り明確にその名が刻まれています。
「前伊予守(義経)が都を去り、西国へ赴かんとするに、従う者は伊勢三郎能盛、佐藤四郎兵衛忠信、江田源三、武蔵坊弁慶等、僅かに十六騎なり」
幕府側の冷徹な筆致で綴られた公的記録に「武蔵坊弁慶」の名が明記されている事実は、彼が実在の側近武士・僧兵であった動かぬ証拠です。ただし、『吾妻鏡』における弁慶の登場回数は極めて限られており、戦場での具体的な武勲や細かな出自についてはほとんど語られていません。比叡山を追放された悪僧時代の狼藉や、書写山圓教寺での修行、七つ道具を背負って戦場を駆けた豪傑ぶりといったエピソードの大部分は、南北朝時代から室町時代初期にかけて成立した『義経記』や『平家物語』の諸本によって劇的に肉付けされたものです。