「渡邉」のバリエーションがこれほどまでに増殖した根本的な理由は、古代から続く血統の誇りと、明治初期に突如として導入された戸籍制度の現場混乱という、2つの歴史的要因が複雑に絡み合っている点にあります。
名字としての起源を遡ると、平安時代の嵯峨天皇に連なる「嵯峨源氏」に行き着きます。その祖である源融(みなもとのとおる)の子孫、源綱(みなもとのつな/渡辺綱)が、摂津国西成郡渡辺(現在の大阪市中央区、坐摩神社周辺の渡辺津)に拠点を構えて「渡辺」を名乗ったことが、すべての始まりです。渡辺綱は大江山の酒呑童子退治や一条戻橋での鬼退治伝説で名を馳せた武勇の鑑であり、彼を祖とする武士集団「渡辺党」は全国の海運や警固を司りながら急速に勢力を拡大していきました。
では、なぜ文字そのものが何十種類も枝分かれしたのでしょうか。法務省の公文書研究者や系譜編纂関係者の検証資料によると、決定打となったのは1875年(明治8年)の「平民苗字必称義務令」でした。全国民に名字を公称させ、戸籍を一気に整備する過程で、文字の登録作業を行ったのは各自治体・寺院の戸籍代書人(役人や筆頭僧侶)たちでした。
当時、文字はすべて筆による肉筆でした。本字である「渡邊」を筆で書く際、「自」の中の横棒を省略して「白」にしたり、しんにょうの点を1つにするか2つにするか、あるいは右下の「方」を勢い余って跳ねたり払ったりと、代書人それぞれの「筆癖」や「独自の略字」がそのまま正式な公簿として受理されてしまったのです。一度役所の台帳に墨で書き込まれた文字は、法的な身分証拠として不可逆の効力を持って固定化され、その結果として現代に続く「数十種類に及ぶ渡辺一族の異体字パラドックス」が誕生しました。