なぜ標高3,776メートルの頂において県境が確定していないのか。その背景には、富士山境界線の歴史と、地域住民にとっての死活問題が複雑に絡み合っています。
富士山県境未定の理由は、江戸時代の信仰と入会権(いりあいけん)に端を発します。当時、駿河国(現・静岡県)と甲斐国(現・山梨県)の農民にとって、富士山の裾野は薪や茅を採取する極めて重要な生活の場でした。そのため裾野の境界を巡る争いが頻発し、江戸幕府は1779年(安永8年)に裁定を下します。このとき「八合目より上は富士山本宮浅間大社の境内地、八合目より下は諸村の入会地」と定められ、山頂部を特定の行政区分に割り振らない知恵が生まれました。
明治維新後の廃藩置県によって静岡県と山梨県が誕生した後も、この曖昧さは引き継がれました。戦後の1951年(昭和26年)、両県の知事や関係者が集まり県境画定の協議が行われましたが、観光資源としての利権や信仰上の愛着が真っ向から衝突。いたずらに境界を引いて禍根を残すよりも「境界未定のまま棚上げにし、平穏を保つ」という歴史的合意が選択されたのです。白黒をつけない融和の知恵が、現在も続いていると言えます。