上月城の戦いで織田軍が尼子氏を見殺しにした真相と非情の決断

上月城の戦いで織田軍が尼子氏を見殺しにした真相と非情の決断

上月城の戦いで織田軍が尼子氏を見殺しにした真相と非情の決断を徹底追究! 読者が気になる 情報と解説を分かりやすく展開します。

上月城の戦い 結末 経緯を理解する鍵は、織田と毛利の勢力境界線における激しい陣地争奪にあります。1577年(天正5年)末、信長から中国攻めの総司令官に任じられた羽柴秀吉は播磨へ進軍。赤松政範が守る上月城を落城させ、毛利打倒の尖兵として同城に配置したのが、尼子勝久や山中鹿介ら尼子再興軍でした。

しかし翌1578年(天正6年)4月、毛利輝元は小早川隆景・吉川元春らを主力とする総勢約3万を超える大軍勢を動員し、上月城を完全包囲します。上月城の守備兵はわずか2,000〜3,000人規模。秀吉は一度救援に向かい、高倉山に布陣して毛利軍と対峙したものの、圧倒的な兵力差と地形的有利を握る毛利勢を崩すことは極めて困難でした。

戦局を致命的に悪化させたのが、播磨の有力国人であった三木城主・別所長治の謀反です。背後を断たれた秀吉軍は挟撃される絶対的危機に陥り、織田信長の本着命令によって上月城を放棄。孤立無援となった尼子勝久は将兵の助命を条件に自刃、捕縛された山中鹿介も護送途中に謀殺され、尼子氏再興運動はここに完全な終焉を迎えました。

吉田 誠
著者

吉田 誠

最新のテクノロジーと生活デザインの融合をテーマに、国内外の最新トピックを発信しています。