インターネット上の言説では「昔の日本人は全国どこでも納豆を日常的に食べていた」と語られることがありますが、これは明確な歴史的誤認です。江戸時代において、納豆文化が深く浸透していたのは主に関東を中心とした東日本であり、京都や大坂を中心とする上方(関西)では全く異なる受け止め方をされていました。
『守貞謾稿』には、「京坂(京都・大坂)では専ら寺院発祥の塩辛納豆(大徳寺納豆や一休納豆など)を用い、糸引納豆は好まない。江戸では夏冬問わず毎朝これを売る」と明確に記されています。当時の上方の人々にとって、糸を引く納豆は「腐敗した豆」と見なされることが多く、日常の食卓に上ることは極めて稀でした。
この東西格差が生まれた背景には、大豆の流通経路と気候条件の違いがありました。湿潤で寒冷な東日本では稲藁を使った発酵技術が生活の知恵として根付きやすかったのに対し、上方では昆布出汁や白味噌を基調とする洗練された出汁文化が先行しており、納豆特有の強い発酵臭が受け入れられにくかったのです。